« 節分 | トップページ | 絵絣の似合う町 »

2020年2月 8日 (土)

麒麟と呼ばれた男

「願わくば 我に七難八苦を与えたまえ」

20200208-221207

 

20200208-221305

どこで覚えたのか寒風の夜に三日月を観ると遥か記憶の中から蘇るフレーズです。

 私は小さい頃から「生辛坊主(しょうからぼうず)」と呼ばれ、よっぽどの利かん坊で、負けることが何よりも大嫌いなガキ大将でした。
喧嘩に負けたり、親に怒られた時、 悔しくて口惜しくて、「こん畜生負けてなるものか」っと想いながら いつも言っていた山中鹿之介の言葉です。

 歴史にはシーザー、ナポレオン、秦の始皇帝、劉邦、日本にも豊臣秀吉、徳川家康、真田幸村、伊達政宗、西郷隆盛、楠木正成等、数々の英傑たちが存在します。
 山中鹿之介は歴史の教科書に名を残すような知名度もありませんが、しかし、生き様はこれまでのどの名将たちより勝るとも劣りません。

山中鹿之介幸盛は、戦国時代中国地方八カ国を治めていた守護、尼子氏の六代晴久、勝久に仕えた尼子十勇士の一人で、十歳の時には大人並の体躯があり、大きな鹿の角と三日月の前立の附いたすばらしい冑をかぶり、十歳で戦に出ては敵の首を取った程の豪傑で、勇力は抜群で才智にも長けており、お家再興の為にはどんな苦労でもすると、「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈って獅子奮迅の働きをした武将です。

お家衰退の最悪の状態でも死ぬまで尼子氏に忠義を尽くし、当時の人は鹿之介を「楠木正成より勝る」と言って褒めたたえたそうです。

  ………………

尼子氏(あまごし)は、京極氏の一族で代々出雲守護代を務め、京極氏から室町時代中期に分かれた家であり、京極尼子家とも呼ばれる。山陰地方で活動し、戦国大名となり最盛期の天文6年(1537年)、尼子氏六代晴久の時代には、山陰・山陽八ヶ国(出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後)の守護、及び幕府相伴衆に任ぜられ、月山富田城(がっさんとだじょう 島根県安来市)を居城に中国八カ国を領域に120万石の広大な領土支配した。(今で言う岡山県、鳥取県、島根県を領有した大大名で、台頭してきた毛利氏と覇権争いをしていた。
七代尼子義久は暗愚であり毛利の謀略などによりやがて衰退し滅亡するが、いっぽう、鹿之介は子どもの頃から麒麟児として認められるほどの、武芸教養に秀でた武将で、他の拠点がどんどん毛利軍によって攻略されていくなか、鹿之介の陣営だけは勝ち続けたといいます。

その勇名才能を高く評価してなんとか家臣に迎えようとしたのは信長、光秀、秀吉等たくさんいたがどこにも行こうとせず、最後まで尼子氏忠義を尽くします。

最終的には、尼子氏の本拠地である月山富田城も兵糧が尽きて降伏しますが、その後も、鹿之介は最後の最後まで尼子氏再生のためにあらゆる局面で獅子奮迅の働きをし続けて死力を尽くし何度も戦い、その努力もむなしく、最後に戦いに破れ、毛利輝元が居る備中松山に護送される途中、高梁川の渡し場で毛利氏に謀殺されてしまいました。他の者は従っても鹿之介を生かしておれば何度でも毛利に手向かってきてしまうからです。時に34歳でした。

 鹿之介の終焉の地が見たくて、岡山県高梁市 日本三大山城の中で唯一天守閣や郭などが残っている備中松山城の梺、高梁川の土手の所に鹿之介の終焉の地の碑を二度訪れていますが、広い川の土手横の景観のよい明るい場所にあり、ここで明日の攻略を錬っていることでしょう。

|

« 節分 | トップページ | 絵絣の似合う町 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 節分 | トップページ | 絵絣の似合う町 »