« 蕎麦の種類(1)そば粉の割合による分類 | トップページ | いっぷくの涼 »

2016年7月10日 (日)

蕎麦の種類(2) 蕎麦屋の系列による分類

蕎麦を商う店の発祥は豊臣秀吉の大阪城築城の時にさかのぼるといわれています。
現代まで続く老舗蕎麦屋の系列は、大きく分ければ
江戸そばの、のれん御三家である「砂場」「更科(さらしな)」「藪」と「一茶庵」の四系統あります。

砂場系
蕎麦を商う店の発祥は豊臣秀吉の大阪城築城の時にさかのぼる、というのが通説ですが、
この「のれん御三家」の中の最古参で、大阪城築城に使う砂を置いていた「砂場」近くにあった「いづみや」というそば屋がその愛称がつき、屋号として定着したそうです。その後砂場は、徳川家康が江戸に居城を定めるのに併せて一緒に江戸へ移転しました。
暖簾会の砂場会は現在百八十店をこえる規模ですが、チェーン店ではないので、店ごとに独自の蕎麦を出されています。
砂場系の味の共通点は一番粉を使用した白くて細い麺と他の蕎麦の両方を味わえる事が多く、蕎麦つゆはやや甘めで濃いめである。

 

 更科(さらしな)系
砂場に続く江戸蕎麦の老舗で、寛政元年(1789年)に信州の織物の行商人をしていた清右衛門が、麻布永坂町に「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」を創業した。

更科粉は、甘皮や細かく割れた殻を除いた高純度のそば粉で、御膳粉ともいいます。色は真っ白でさらさらとしており、香りは弱く上品さを持ちます。
更科は、この更科粉で作った上品な白い蕎麦を出す店であり、江戸城や大名屋敷にも出入りを許され、御前に供することから更科蕎麦は御前蕎麦とも言われました。
現在では東京都港区麻布十番にある3軒の更科(「麻布永坂 更科本店」「永坂更科 布屋太兵衛」「総本家 更科堀井」)のほかにも、都内の芝大門、神田錦町、有楽町などにのれん分けされた更科の店が見られます。
「さらしな蕎麦」は普通の蕎麦より細く作られ、全体の表面積が大きく、汁がらみがよくなるので蕎麦つゆは薄めで甘いくできています。
更科粉はつなぎを入れないととても繋がりにくく、二八で出したり、色が白いので変わり蕎麦などで扱う場合が多い。10割の更科蕎麦を出す店は日本に数店しかないようです。
日本全国に更科 さらしな という名の蕎麦屋を見かける事が偶にありますが、ほとんどがこの「更科」とは関係なく、また、更科という店名でありながら更科蕎麦をやっていない又はやれない店ばかりである。

 

 藪(やぶ)系
「藪蕎麦(やぶそば)」は、本郷根津の団子坂にあった「つたや(蔦屋)」が発祥で、江戸時代末期1833年以前に開店しています。この「蔦屋」には竹藪が茂っていたことにより、「藪」の愛称で親飛ばれるようになりました。
藪御三家 明治13年に蔦屋ののれんを受け継ぎ「かんだやぶ」が創業、 大正2年に「並木やぶ」 昭和29年「池の端藪蕎麦」が創業。

上野の『上野藪そば』は、明治25年に藪蕎麦総本家の『連雀町藪蕎麦』(現在の「かんだやぶそば」)から暖簾分けされた店であり、
 そして静岡県島田市にある孤高の銘店『藪蕎麦 宮本』は、『池の端藪蕎麦』で修行されました。
 このほかにも日本各地に、「藪蕎麦」が沢山ありますが、「かんだやぶそば」に繋がる店もあれば、そうではない店もあります。
藪系の特徴
藪の蕎麦は黒いといわれるが、それは更科と比較してであって、鬼殻からの碾きぐるみの田舎蕎麦ほど黒くはなく、普通の蕎麦の色といっていい。
店により、生粉打をするところもあれば二八もあり、手打ちもあれば機械打ちもあるが、傾向として蕎麦の風味をたいせつにした蕎麦粉を選ぶ店が多い。
一番の特徴、藪の蕎麦つゆはどこよりも辛い。 
味わいとして、箸で持ち上げた蕎麦をつゆに全部浸すのと、先だけ付けるのと、どうちがうのでしょう。
蕎麦をつゆに全部浸けると麺の表面が蕎麦つゆで覆われてしまい、蕎麦のほのかな香りや味をが感じ難くなる。
先の方だけちょっとつけて食べるということは、蕎麦つゆのついていない部分から口に入り、立ち上る香りを楽しみつつ、後でつゆも味わうという食べ方である。つまりこの方法は、そばの香りが失われないようにするためのとても理にかなった食べ方である。
また、箸に持った蕎麦の先っぽをつゆにちょっとつけて、麺を高く引き上げて素早く口に手繰(たぐ)りこむ動作は、江戸っ子には粋に見られ、粋な江戸っ子は汁にどっぷりつけるなど野暮なことはしない。そんな風潮も後押しして、藪の汁は濃い辛口のものになったのであろう。
落語にもそんな話が出てくるが、そうした影響も大きいのだろう、今でも東京では、蕎麦つゆにどっぷりつけてはいけないと言われている。
 日本中300軒ほど食べ歩きましたが、日本で一番辛い蕎麦つゆの店は並木やぶであろう。ここの蕎麦つゆは全部浸けろといわれても辛くて食べられない。 せめて三分の一が良いところだ。落語で出てくるそのままの感じである。
 粋な食べ方をする事で、そばの辛さがマッチするという動作と味が一体化しているのである。

 並木藪は浅草雷門から50m位の所にありますから、是非チョコッと付けて手繰りながら、一度たべてみてください。

 

 一茶庵系
蕎麦店で修行したことはなく、全くの独学で、1926年2月、東京・新宿駅東口に「一茶庵」を開業した創始者片倉康雄(友蕎子)。(明治37年(1904)生まれ)
第二次大戦でいったん店をたたんだが、戦後1954年に一茶庵は栃木県足利で再出発する。
 
 片倉康雄氏は、手打ちそばを蕎麦文化として普及定着させた大功績者だと思います。 ただ手繰るだけの地味な蕎麦が、片倉康雄氏の様々な変わり蕎麦の開発や多様さで一気に華やかで上品な蕎麦懐石としての側面も持つようになり、檜舞台に出た感もあります。
 
 
戦後すでに蕎麦打ち名人として認められていた友蕎子は、普通なら容易に明かさない蕎麦打ちのノウハウを、公開の教室で惜しげもなくどんどん広めていった。
蕎麦の神様とも呼ばれ、信奉者も多く、その教えを授かった者は数知れない。
足利「一茶庵」は、遠路はるばる東京から、食べに来る客も多く、また、一茶庵のそば打ちを学ぶひとも、次から次へと訪れました。

 弟子の中には伝統の江戸二八蕎麦にこだわらず、石臼碾き自家製粉の十割蕎麦を手がけるなど新しい発想を持った人達が沢山輩出されています。
…………………………………………
(ここからは足利一茶庵のHPより抜粋)
 足利の地で、片倉康雄は一茶庵を発展させて、多くのお弟子さんを育て、日本のあちらこちらに「一茶庵の手打ちそば」を広めていきました。そして彼は昭和二年、文士・高岸拓川から『現代の友蕎子を目指しなさい。』と言われ「友蕎子」と名乗るようになりました。
「一茶庵・友蕎子・片倉康雄」は、伝統的な手打ちそばの世界に、新しく「一茶庵流の手打ちそば」の大きな潮流を確立しました。そして、さらに「そばの道」をきわめるために、古くは「続日本記」までさかのぼる多くの書物を学び、さらに、蕎麦を打ち、蕎麦を切るための多くの道具も研究し、改良を加えました。木鉢、麺棒、のし板、包丁に至るまで、独自に開発し、自分の手で作りました。
…………………………………………
 私も栃木県足利市の一茶庵に数回お邪魔しましたが、豪壮な建築文化賞受賞の建物、入り口看板、器、そば道具、テーブル、柱までもが友蕎子片倉康雄の手がけた、残していった作品たちです。
ここも是非一度は訪問してみるお店です。
 (その著書「片倉康雄 手打ちそばの技術」は高価な本ですが、そばに関する全てが網羅されており、蕎麦打ちのバイブルといわれています。とても素晴らしい本で、私もこの本を購入し勉強させていただきました。)

その他、
手打ちの蕎麦屋としては、現代では高梁邦弘氏の翁達磨グループ(全国に約40店舗。これも一茶庵系とも言えるが。)。
手打ちそば不毛の名古屋に蕎麦屋ブームを作った服部隆氏の紗羅餐グループ。(中心に約30店舗)など様々ある。

|

« 蕎麦の種類(1)そば粉の割合による分類 | トップページ | いっぷくの涼 »

蕎麦」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 蕎麦の種類(2) 蕎麦屋の系列による分類:

« 蕎麦の種類(1)そば粉の割合による分類 | トップページ | いっぷくの涼 »