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2008年9月16日 (火)

倉吉 出身の 勤王の志士

約150年前 激動の幕末動乱の中 勤皇か佐幕か 大きく揺れる鳥取藩で活躍した男

                           伊藤健蔵

 江戸時代では2カ国も領有した大名はまず無いのであるが、鳥取藩は因幡国(いなばのくに)・伯耆国(ほうきのくに)(共に現在の鳥取県)の2国を領有した大藩である。石高は32万5千石。   2国を領し因幡国内に藩庁が置かれたため、伯耆国内では米子と倉吉に城が置かれ城代家老として、各々、荒尾氏が委任統治(自分手政治)を行った。    

 鳥取池田家は池田輝政と徳川家康の二女・督姫との間に生まれた忠雄を初代とする家系であり、外様大名ではあるが松平姓と葵紋が下賜され、親藩に準ずる家格を与えられている。

このため鳥取藩の池田家は、常に徳川家側の家であり、外様大名の中でも別格で注目されていた。       

 幕末のこの時の鳥取藩主は12代 池田慶徳。 慶徳は水戸藩主 徳川斉昭の五男であり池田家に養子として入っていた。徳川斉昭には多くの子どもがありその中の1人は徳川将軍になった一橋慶喜である。慶喜は池田慶徳の弟である。   

 水戸徳川家は徳川光圀によってはじまった歴史書の「大日本史」編纂以来、有名な尊皇家であり、特に徳川斉昭は急進的な勤王の立場であった。       
 そして、池田慶徳は 15代将軍・徳川慶喜の兄でもあり、鳥取藩池田家は親藩に準ずる家格でもあるため、佐幕でもあるという微妙な立場にあった。このため鳥取藩内では幕府を盛り立てようとする佐幕派と天皇をかついで王政復古を行おうとする勤王派とが他の藩以上に大きく割れて争っていた。       

 丁度この頃長崎で蘭学を学び、開国したばかりの横浜で世界の医術や学問、情報を学んで帰ってきた倉吉出身の鳥取藩家臣 伊藤健蔵はその力量から鳥取藩の御殿医となっていたのである。       
 諸外国の動向などを得てきた健蔵は、インドや中国などの状況から鎖国では国が滅ぶと考え、開国すべきだと思っていた。しかしまだそれを鮮明にするには時期が早いと伏せていた。

 勤王の志の厚かった健蔵は御殿医として、医師として勤王派の中心となり、諸国の名士達と情報交換をしながら藩論を勤王にまとめていくのである。

        伊藤健蔵は(天保11年(1840年)に生まれ、明治40年(1907年)に死去するのであるが、同時期に活躍した勤王の志士として
        坂本 龍馬天保6年(1836年) - 慶応3年(1867年)
        高杉 晋作(天保10年(1839年) - 慶応3年(1867年))
        伊藤 博文(天保12年(1841年) - 明治42年(1909年))などがいる。

 健蔵の活躍により、鳥取藩は薩長土肥に遅れることなく勤皇雄藩となる。 これにより池田慶徳は鳥羽伏見の戦いでは大阪城にいた弟でもある慶喜の幕府軍と相対して勤王方について戦うのである。       
 戦いでは幕府方は15,000人の兵力を擁し新政府軍は5000人と3倍の兵力であったが、幕府軍の総大将の徳川慶喜の急な撤退による混乱と、新政府軍の最新の軍備と砲兵力により新政府軍が優勢になった。ここでようやく多くの藩が幕府軍を見限ったため、幕府軍の全面敗北となった。
 以後、戊辰戦争は江戸市街での上野戦争や、北陸地方、東北地方での北越戦争、会津戦争、箱館戦争と続いていく。       
 この戊辰戦争に健蔵は藩主と共に官軍として東北まで従軍していくのである。 

 この初期から勤王としてつとめた功績により池田家は明治17年(1884年)7月7日、侯爵となり華族に列せられた。

そして戊申戦争後に健蔵は、鳥取藩及び明治維新後の鳥取県の医師のリーダー的存在として鳥取県の医療の発展のために尽くすのである。   

 

 健蔵は書画骨董にも造詣が深く、人を育てることにも力を入れていたが、明治になり貧窮していた元武士の三男の隼三(はやぞう)という子どもの類い希な才能を見いだし、大人になるまであらゆる援助をおこなうのである。   

 健蔵は類い希な隼三の才能を将来、国家の為に役立てようと考え、自分が継いでいた伊藤本家を弟の良蔵に譲り、子の無かった良蔵に息子の琢郎を養子として入れ伊藤家を存続させ、自分は分家となって、隼蔵を養子に迎えたのである。 隼三は16歳の時に長女寿賀子と婚約して姓を「伊藤」と改めた。   

 伊藤隼三は明治17年(1884年)東京大学医学部へ進む。東京大学を卒業と同時に、母校の東京大学助手に任命され、医学研究者となる。   

 健蔵は隼三のために病室数六十三という県内一の大病院(因幡病院、後に伊藤病院と改名)を私費で創立して、因幡病院の院長に迎える。   
 一度は因幡病院の院長になった隼三であるが、より深く医学を極めるため健蔵の援助でさらに最先端の医学を学ぶためヨーロッパに留学し、各国の一流教授の下で医学全般を学び直し明治三十二年(1899年)帰国。   

 帰国後は京都帝国大學医科大学教授、医学部長 大学付属病院長 大学評議員 帝国学士院会員と、帝国大学医学部の教授としては最高の経歴を重ね、京大医学部、そして日本の医学の発展に多大な貢献をすることになったのである。   

 また、日本の外科手術の第一人者として日本の外科のレベル向上にも多大な貢献をする。   

 隼三が留学中及び京都帝国大学で教鞭を執っている間 健蔵は県内で一番の伊藤病院(因幡病院)を院長として発展させるが、隼三の帰りを待たずに明治40年に死去。 

 伊藤健蔵は勤王派の中心人物として鳥取藩を導き、更に鳥取県のために多大な貢献をしたことにより 贈正五位を受勲するのである。(正五位は男爵に次ぐ位である)   

健蔵亡き後 大正13年(1924)隼三は京大を定年退官後 伊藤病院に帰郷。故郷では「日本一の医師、鳥取に帰る」と大評判を呼び、地域医療のために貢献をし、「医の神様」として慕われた。しかし、昭和4年(1929)過労のため急逝。葬儀には天皇陛下より勅旨がきたそうである。   

 

地元で長い間 敬愛されてきた伊藤病院は、3代目伊藤病院長を継いだ彼の長男 肇により、昭和6年6月、鳥取市のためにすべてを寄付され、名を市立鳥取病院と改め、現在は鳥取県立中央病院として発展している。   

 鳥取県と鳥取市は昭和31年7月、 郷土のために多大な貢献をした伊藤健蔵・伊藤隼三・伊藤肇の伊藤家三代に感謝する為、倉吉市広瀬町の伊藤本家の跡取であり彫刻家でもある伊藤宝城(伊藤博)作の「鬼手天心」像を顕彰碑として鳥取県立中央病院玄関に建立した。

 昭和50年5月に老朽化した鳥取県立中央病院は鳥取市江津へ移転し新築され、この「鬼手天心」像は今も鳥取県立中央病院の玄関ホールにたっている。

    (伊藤本家は倉吉市広瀬町にあったが、10年ほど前に解体された。現在 大島動物病院となっているのがその場所である。)

 

 父や祖父、曾祖父のことを調べている内に徐々に歴史が身近になり、調べれば調べるほど深みにはまっていく。

 約150年前の幕末動乱までもが私の直ぐ目の前で存在してくるのだった。

   
この幕末から明治にかけて大活躍したのが私の曾祖父であり、伊藤宝城は私の伯父にあたる。倉吉市鍛冶町の染織家 吉田たすくは伊藤家の出身で伊藤宝城の弟であり、伊藤健蔵の孫。    
伊藤隼三と伊藤宝城、吉田たすく についてはインターネットやWIKIPEDIAで検索して頂くと詳細がわかります。

伊藤隼三
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E9%9A%BC%E4%B8%89      

伊藤宝城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%AE%9D%E5%9F%8E

鳥取県立中央病院

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%8F%96%E7%9C%8C%E7%AB%8B%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E7%97%85%E9%99%A2#.E6.B2.BF.E9.9D.A9

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コメント

はじめまして。鳥取藩主池田慶徳侯は戊辰戦のおり東北まで征かれたとのお文を拝見しました。この記述に出遭えて興奮しております。藩医伊藤健蔵さまは歴史をうごかしたご先祖さまと思います。藩主を動かした人、と捉えたい。京都を出発した東山道東征軍に加わり、甲州攻め、江戸へもどり、のち平城攻め仙台へまで藩主と行動をともにされた、と理解してよろしいのでしょうか。それとも仙台へはゆかず、板垣退助とともに、会津攻略に加わっておられたのでしょうか。     お教え願いないでしょうか。

投稿: 大門康睦 | 2015年2月12日 (木) 16時09分

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