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2008年5月31日 (土)

蕎麦の歴史-1

蕎麦打ちを楽しむひとりとして、数年前に蕎麦打ちの歴史を多少調べたことがあります。

1  日本の蕎麦の歴史はとても古く、縄文時代の遺跡から蕎麦の種が見つかっているそうです。埼玉県岩槻市の真福寺泥炭層遺跡という縄文時代晩期(B.C.900〜500年)の遺跡から蕎麦の種子が見つかっています。
 花粉による科学的調査が野尻湖で行われ『そば』の花粉が450年以降のものであることが確認され、野尻湖周辺ではこの頃から『そば』の栽培が行われていたと推定ができるそうです。(又聞きのため事実は確認していません)

 また、文献による蕎麦の初めての記述は奈良時代 「続日本紀」の養老六年(722年) 元正天皇が天候不順で諸国の国司に、送った詔(ミコトノリ)であるといわれます。
「今年の夏は雨が降らず作物が実らない 国中の国司(地方役人)達に百姓に勧めて 晩稲 蕎麦、 大豆、小麦を植え貯蔵して凶作に備えさせよと 飢餓対策作物として栽培をすすめました。
元正天皇は、まるですべてが揃っていたような女性であったようだ。 独身でやさしくあでやかで美しくそして天皇であったとは。

元正天皇は第44代の天皇で女帝であり、父は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子。
日本の女帝としては5人目であるが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇である。
「続日本紀」にある元明天皇譲位の際の詔には「天の縦せる寛仁、沈静婉レンにして、華夏載せ佇り」とあり「慈悲深く落ち着いた人柄であり、あでやかで美しい」と記されている。

独身でやさしくあでやかで美しくそして天皇であったとは、すべてが揃っていたような女性ですね。

 この頃のそばは、殻付きの玄蕎麦を臼でついて蕎麦殻をはずし「蕎麦米」にしたものを、他の野菜に加えて煮たり、むき身の蕎麦の実を湯がいた そばがゆ でたべていたようです。
 その後、石臼が普及してきて、臼で碾いて粉にすることをおぼえ、そばがき、蕎麦団子、餅などにしてたべたようです。
 

 蕎麦は世界中様々な国食べられていますが、今でもこのような食べ方をしているようです。

現在我々が「蕎麦」として食べている細切りのそばはずっと後の時代になってから「蕎麦切り」という名で出現しますが、日本の「蕎麦切り」の様に細く長く切って食べる国はほんの僅かしか見られません。(これについてはまた後日書きます。)

 今のように製粉技術も発達していなく、ぼろぼろになってしまう蕎麦は、つなぎを使う方法を知らなかったため、めん線状に成形できず、長い間 そば錬りかそば団子で食するほかなかったのです。
やがて、つなぎに小麦粉や山芋などを使用することをおぼえ、うどんのように蕎麦を練って細く切ることが出来るようになり、蕎麦はめん類として急速に普及しました。

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  蕎麦切りの起源

 古文書などで蕎麦きりが文献にあらわれるようになるのは1500年代の後半からで、
数年前まで最も古いとされていた文献は、1614年(慶長年間) 近江 多賀神社の社僧 慈性が記した「慈性日記」で、この日記の慶長十九年(1614年)の二月三日の条に江戸の常明寺で「蕎麦切り」が振る舞われたという記録です。

次いで見つかった文献は「慈性日記」より少し古く、尾張一宮の古刹 妙興寺の「蕎麦覚書」(1608年)です。
 
 そして数年前に、そば切り最古の記録が中仙道沿いで発見されました。

平成四年に長野県 木曾 大桑村の定勝寺で発見された「番匠作事日記」です。

そのことが知りたくて長野県の定勝寺まで出かけてきました。

それは、ちょうど戦国の真っ盛り   桶狭間の戦い(1560)   室町幕府が滅ぶ(1573)   長篠の戦で信長は、武田軍を破る(1575)  と続く時代で室町幕府が織田信長により滅ぼされた翌年
のことです。

  天正二年(1574年)に書かれた「番匠作事日記」の中に、仏殿を改修工事した際「振舞ソハキリ 金永」と記されており、そば切りを振舞った記録が残っていました。


このことに触れた信濃史料を書き写した定勝寺の本堂内の額。

『 定勝寺のそば切り
信濃史料によると天正二年(1574年)に木曾定勝寺では、仏殿の修理を始めた。
仏殿の修理の記録である「番匠作事日記」の中の「同(作事)振舞同音信衆」に「徳利一ツ、ソバブクロ一ツ、千淡内」および「振舞ソバキリ金永」という記述がある。
三月十六日竣工祝いに千村淡路は蕎麦一袋を寄進し金永という人物はそば切りを振る舞ったのである。
「ソバフクロ」はおそらく蕎麦粉であろう。
この史料は現在の所 信濃ばかりでなく「そば切り」に関するわが国最古の史料である。

その上 定勝寺には古くから小麦による麵作りの技法が伝わっていたのである
元和より百三十年も古い 永亨十二年(1430年)の「蕎麦瓶子」が見えている
これは「こしき」で麦の麵を蒸す道具だと推察される さらに古く永応二十九年(1422年)の年貢納下にも索麺(そうめん)がでてくるのである 麺棒やのし板もとうぜんあったであろう』
と載っていました。

もし今後、この定勝寺「番匠作事日記」の記述より古い史料がが発見されなければ、木曾が蕎麦切りの発祥地の有力な一つと考えてもよいとおもわれます。
もしちがっていても 蕎麦切りの発祥は中山道沿いの信州か甲州であろうと思われます。

定勝寺じょうしょうじ
長野県大桑村須原831-1
0264-55-3031 JR須原駅→徒歩10分
重要文化財1登録  桃山時代建造物
本堂・庫裏・山門
無休    8~17時    拝観300円
臨済宗妙心寺派の古刹
十四世紀後半、木曾義仲の末裔、木曾親豊が開いた。木曾にあるお寺では一番古い
桃山建造物として、檜皮葺の山門 本堂 庫裏は国の重要文化財に指定されている。古文書や絵画の蔵品も多く、庭園もすばらしく山深い木曾に京文化がしっかり根付いている。

マイフォトに定勝寺のアルバムを載せています

 つづく

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コメント

はじめまして 粗挽きそばが食べたくて
石臼を手に入れ 蕎麦粉の不思議、石臼の
不思議に 嵌まり込んでしまいました。

私も 蕎麦は 生粉水練りに限ると
思っております。当面の目標は 更科生粉水練りです。 20-30メッシュの粉が 20%ぐらい含まれる (高山製粉 手挽きメッシュみたいな粉)自己製粉の粉で 細い長い蕎麦が出来ればと チャレンジ中です。
少し 目標まで うろうろしていますが・・・

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よませていただきます。また、遊びにまいりますので よろしくお願いいたします。

投稿: 辛汁 | 2008年5月31日 (土) 09時37分

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